最初に、

まもなくあの日から一年。

しゅうファミ家は昨年八月までは、
宮城県は利府町という所に住んでいました。
(仙台市の北、仙台駅まで15キロ位です。)
けっして大きな被害にあったとは言い難いですが、
それなりに苦労困難もあったと思っています。
苦労自慢みたいに取られるかもしれませんが、
想い返す、残す。という意味も込めて、振り返ってみたいと思います。
(ほとんどポケカに関係ありません。)

今回、改めて家族に聞きながら書いたこともある一方、
シュウ父のうろ覚えの記憶で書いていることもあります。
内容に誤りがあるかもしれません。あらかじめ、ご了承ください。




2011.3.11 14時46分
しゅうファミ家3人はそれぞれ別の場所にいました。

シュウは小学校で、帰りの会をやってるとき。
あと5分10分遅かったら、下校途中であの揺れに遭遇していることになった…。
「机の下に入ったけど、机ごとすっごく揺れて、みんながキャーって言ってた。」
「オレね、揺れてる間机の脚つかみながらね、『大丈夫、オレは絶対大丈夫…。』ってずっと唱えてた。」
ランドセル、上着もそのままに上履きで校庭に避難。
そう、この日はとても寒い日でした。地震のあとすぐに雪も降りだしました。
(先生たちは余震の続く中、校舎にもどって児童達の上着をとって来てくれたそうな…。)
親御さんたちが迎えに来るまで、校庭で待機。
(親御さんがすぐ迎えに来れず、そのままその晩体育館に泊まった児童も…)



一方、シュウ母はパート先から帰ってきて自宅。
遅い昼食をとりテレビ見てたら、(携帯の)緊急地震速報が鳴ります。
最初から「この地震は違う」と思えるような揺れ。一生懸命倒れそうなテレビ押さえてた…。
ようやく揺れが収まる。必死に気を落ち着け、やることを考える。
ブレーカーを落して、風呂場で水を張って、(この後、すぐに止まってしまった。)外にでる。
住んでるアパートの被害を確認、比較的少なそう。
(それでも外壁にはヒビが。プロパンガスのボンベは固定していたバンドがはじけ飛び、
ホース1本でぶら下がっている状態でした。)ボンベを直しバルブ栓を勝手に閉めておく。
最初のうちはメールの受信はできた。ただ、返信はほとんどできない。
早い段階で携帯電話、メールはあきらめる。

当然気になるのはシュウのこと。
緊急時学校からメールが来ることになっているが、さすがに今回は来ない。
近所の人と連れだって小学校へ向かいます。
シュウと合流できたのは、地震発生から小一時間たってから。
大泣きする子もいる中、シュウは泣きもせず、迎えが遅いと怒ってた(笑
帰りに、地元の商店が開けてたので ここでペットボトル、クラッカー、カップ麺を購入。
(オバチャンが一人で電卓たたきながらやってたそうな…。)
帰ってきて、改めて部屋の惨状を確認。小さなものは、軒並みひっくり返ってる…。シュウへこむ(笑
さいわい、大きな家具で倒れたのは鏡台くらい?(それでもシュウ母だけでは起こせず、あきらめる)
食器も多数破損し危険な状態だし、油や砂糖も散乱。台所には入れない。
「もう今晩ここでは寝られない」と考え、車中泊の準備を始める。
毛布・着替え・食料品・ボンベ式ガスコンロ等を車に移動。
(途中、余震のたびに何度も外に退避することに。)
 17時半ころ、暗くならないうちにと、ご近所で集まってお湯を沸かし、皆でカップ麺を食べる。

外部情報については、携帯のワンセグ、カーラジオが情報源でしたが、
携帯充電が心許無いので専ら、ラジオ。
ただ入ってくる情報が悲惨すぎて
シュウや他の子供達にも聞かせたくなくて結局OFF。
停電のため、暗くなると何もできないので、あとは自分の車で過ごすことに。


シュウ父は出張中。3日前から一関市の職場にいました。
私の勤め先は、ある商品の小売業(店)をやっています。
今回、ショピングセンター(以下SC)に入る新店のOPENにむけ、準備の応援のためでした。
数日かけて商品の陳列や準備をして、ようやく開店を迎える所でした。
そう、3/11は このお店の開店日だったのです。
(開店して、わずか4時間半ほどで、閉店することに…。あ、もちろんその後再開してます。)

その時間、私は接客中。お問い合わせの品物を探して、レジへ戻るところでした。
携帯が緊急地震速報を鳴らしますが、その後何度もきくことになるこの警報音も、
その時はまだ、「?」でした。 さしたる準備もできず、即揺れがきます。
最初の一揺れで、昨日まで自分たちが並べてた商品が棚の形のまま落下していきます(笑
向かいの薬屋でも商品が落ち、山積みの栄養ドリンクが割れていきます。
(一時、栄養ドリンクの匂いを嗅ぐと、この時の光景が思いうかぶように…。)
順番に落ちて行く照明。(出入り口が近かったので真っ暗闇にはならず)
バリバリと大きな音を立てつつ、目に見えて歪む天井の石膏ボード。
その下で動けなくなってるおじいちゃんのベルト引っ掴み、通路まで引っ張り出したりしてても
まだ揺れてる位、長い揺れでした。実際数分位だと思いますが、体感はもっともっと長かった。
揺れが落ち着いた所で、ようやく状況を確認。さいわい怪我人はいなそう。
店内に残っている人がいないか確認しつつ、全員でSC建物から避難します。
駐車場に出ると、まるで狙い澄ましたかのように、雪がかなりの勢いで降り始めました。(この雪には本当に悪意を感じた…。)
暖房のきいた店内で働く服装のままなので、皆ワイシャツ・ブラウス一枚でこの雪はつらかった…。この間もたびたび余震が…。

気付くと、おじいちゃんが、連れがいないといって探し回っています。
事情を聴くと探しているのは奥さんで、自分は一階のお店に、奥さんは二階のお店にと別々にいたそうな。
逃げ遅れてまだ店内にいるのではないか?と戻ろうする、おじいちゃん。
あわてて押し止めて、出口は別にもあるからと、一緒に回ってみることにします。
寒さからか心配からか、ブルブル震えるおじいちゃんを、抱きかかえるようにして各出入り口をまわります。
幾つかの出入り口でお連れ様の名前を呼ばわると、おじいちゃんは無事奥さんと再会できました。良かった。良かった。
ほどなく、ほとんどのお客様は車で帰って行かれましたが、従業員は、復旧のために中に入れるのか、あきらめて退避解散なのか、SCの指示をまちます。
その後の指示は解散。そーですか、では撤収準備。
SCからは 入るな!!って指示なのに、無視して店内に侵入。
それぞれの私物を運び出します。(汗
(知らない人が見たら、窃盗団に見えたと思います。)

ここまでで、自分の店の従業員さんの一人と連絡がついて、当時の出勤者の全員無事退避を確認。
よーしよーし、ようやった。ここでようやく身内のことに時間を取れます。
シュウ母とは携帯つながらず。シュウ母の実家にのみ、なんとかつながって状況の確認と説明。
義父と話したのですが、その時点ではあちらからもシュウ母とは連絡が取れておらず…。
義父は95年当時は大阪に住んでいて、阪神大震災の時の経験があります。
その義父をして、
「まぁ、○○(シュウ母)のことだから、連絡とれんでも大丈夫だろう。」と。
お義父さん、なんなんですか、その絶大なる信頼っぷり(笑
その後、シュウ母とようやく連絡が取れたのは、さらに4,5時間後。
帰路途中でした。

新店オープン日ということで、近隣各県から応援で社員が集まっていたのですが
解散し、それぞれ帰路につきました。ところが、ここで悲劇が…。
ここで解散したうちの一人が、その後2日間行方不明になってしまいます。
後日聞いた詳細は以下のとおり。
彼は秋田県からきていました。解散後ほぼ一番最後に出発します。
本人は気付いてたそうですが、自分の車にガソリンが少なかった…。
「すぐにどこかで入れられるだろう」と思っていたそうですが、当然どこも開いてない。
「しょうがない、どこかに泊まろう」しかし、宿もどこもやっていない。
ガソリンがいよいよ危なくなり、携帯も充電が切れ、完全に身動きが取れなくなってしまいます。
彼は、見ず知らずの地の公民館のような避難所で、全く知らない人達と一緒に2泊したそうな…。
家族と連絡も取れず、この状況は本当にキツかった。とは本人の談。
(見ず知らずの人に毛布・食事をわけてもらい涙したそうな。)


閑話休題。
私も宮城に帰ることにします。
往路は東北自動車道で一時間位の道乗りでしたが、当然通行止め。
下道で帰ります。
一関を出発したのは16時半頃。
信号機も止まり、雪も降っているのもあり大渋滞です。
全車線が塞がっているので、救急車等の緊急車両も全く動けなくなっている所を何度も見ました。
橋の前になると特に渋滞がひどくなります。(橋に荷重かかり過ぎないようにするためか、車線規制がかかっていた。)

真っ暗な中走っていると明りを見つけるたび、ここは電気が残っているのかと期待します。でも、だいたいの場合、車のヘッドライトで、そのたびがっかりしたものでした。


道中、入口を開けて人の出入りしているコンビニを見つけます。
弁当・インスタント食品や水など主だった所は既に売り切れでしたが、
お茶のペットボトル、水の代わりに袋詰めの氷、チョコレートバーなどを購入したように記憶しています。
家族経営な感じのコンビニで、真っ暗な中、蝋燭をつけて店内を照らし、
ご主人が店内で見回り、奥さんが懐中電灯、娘さん(?)が電卓を一生懸命叩いていました。
(こういう光景を今後何度も見ることになります。小売りに携わる者として頭が下がります。)


一関を出発して約7時間、日付も変わって12日の午前零時半ごろ、ようやく自宅に辿り着きました。
シュウとシュウ母の2人は、シュウ母の車内で寝ていました。
起こしてしまって悪かったけど、
どうにかこうにか家族3人、顔を合わせることができました。
半分寝ぼけてたけど、シュウも比較的元気そうで、安心したことを覚えています。


雪の降る中、その間にもたびたび来る余震。
寒さに目が覚めるたびエンジンをかけ、温まったらまた切るという事の繰り返し。
こうして、震災最初の夜を過ごしたのでした。






ふう。思いのほか長くなってしまった。
ポケカに関係のないこんな話を、どれだけ読んでもらえるのか非常に疑問ですが、
後日、できたら翌日以降の話も書けたらとは思っています。

ここまで読んで下さった皆様(いらっしゃればですが)、ありがとうございます。

コメント

やすみん
2012年3月8日0:58

拝読させて戴きました。
色々考えさせられる、3/11でした。
本当にあの震災でご苦労された方々には頭が下がります。

>ひみつ
管理トップ→日記のテーマ→テーマの変更で、好きなようにテーマというかカテゴリーを変更出来ますよ!

しゅうファミ
2012年3月8日1:19

やすみんさま
ありがとうございます。
わが家の体験など、この程度のものですけど(汗
軽々しく文章化できないような体験をされた方も沢山いる、ということも忘れないようにしたいと思っています。
でもあの頃、DNではやすみんさんはじめ、読んでて本当に励まされましたよ。

>ひみつ
ありがとうございました。さっそく変更しました。

ずさママ
2012年3月8日20:04

読んでいると当時の状況が思い出されます。朝の通勤時に読んだ時には、ちょっと涙が出そうになりました・・・
パパさんは栄養ドリンクで思い出されるとの事。私は時間が掛ったと言う事で、今年の雪での渋滞が当時の出社時の渋滞を思い出します(汗
しゅうファミ家の翌日以降の「暗闇ポケカ」の話題もお待ちしています。

しゅうファミ
2012年3月9日0:45

ずさママさま
いやな思いとか、させてしまってないでしょうか…(汗
客観的にしようとすると冷たい感じになる気がするし、
茶化して書くのも不謹慎か…。
でも余りに悲壮に書くのもなぁ、とも思いつつ、
かなりグルグルしながら書きました。
でも、続きを書くならもっと砕いて、軽いものにしたいかなぁ。

さーて、次回は(あるとすればですが…)
「暗闇で挑戦!3人ポケカ」
「シュウ、布団から出てこなくなる」
「サニラン復活!シュウ父単騎デビュウ」
の3本です。  
…砕けすぎでしょうか?

883R(ピカリボン)
2012年3月10日15:59

明日で1年ですね。
西日本に住む私たちには想像もつかないご苦労があったと思います。

皆さんを見習って少しづつですが、私たちも復興に向けてできることからやっていきたいと思っています。

「げんきのかけら」&「ふっかつそう」for JAPAN!!

しゅうファミ
2012年3月11日1:11

883R(ピカリボン)さま
ピカリボンカップの活動、すばらしいですね。
自分も離れた地からでもできる事を考え、実行できるようにみならわなければ。

まずは今日、時刻には仕事の手を止め、黙祷したいと思っています。

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